本文へスキップ

「ありがとうジロー」のホームページへようこそ

電話でのお問い合わせはTEL.090-2180-4181

〒422-8063 静岡市駿河区馬渕2-14-33

イントロダクション2

「日本一周を決意したわけ」

 蒲谷さんが日本一周をしようと決意したきっかけは、会社を共同経営していた大切なご友人を病気で亡くしてしまったことです。若い頃からがむしゃらになって働き、ようやくこれから好きなことができると思っていた矢先のことでした。
 蒲谷さんは心にぽっかりと穴が空き、ついには会社をたたんでしまいました。精神的にかなりのショックを受けてしまった蒲谷さんは、その後何もやる気が起きず、1年くらいは家でゴロゴロとしていたところ、そんな蒲谷さんの姿を見かねた奥さんが、「今こそ好きなことができるんじゃない?」とアドバイス。「そうか、そうだったら若い頃からの夢だった、日本一周はどうだろう!」と思い立ったのです。
 蒲谷さんは最初、奥さんと一緒にと考えたものの、3人の娘さんを放って家を空けるわけにはいかないし、という奥さんの意見もあり、それならジローと行こうと考えました。 当時ジローと蒲谷さんは、バイクで海まで出かけたりしていたので、バイクのツーリングでも大丈夫だろうと思ったそうです。 この時から、蒲谷さんとジローの日本一周ツーリングが始まったのです。
 あれこれと計画を練っているうちに、ふとした考えが蒲谷さんの頭をよぎりました。 「いくら念願の日本一周だからと言って、50を過ぎた男が好きなことばかりしているわけにはいかない。ツーリングの途中何か人の役に立てないだろうか。」ちょうどその頃 雲仙普賢岳、南西沖地震という大災害が起こっていた事が記憶に新しかったため、「そうだ、被災者の方々への義援金の募金活動」という目的にしたのです。

「人とふれあう素晴らしさを知る」

 1994年4月いよいよ日本一周ツーリングに出た蒲谷さんとジロー。
何とか出発はしたものの何しろ始めてのロング・ツーリングのため、道中はハプニングの連続でした。 犬と一緒だと多くの旅館は泊めてくれません。だからほとんどがテント泊。それはそれで苦にはならなくても、ずっとがむしゃらに働いてきた蒲谷さんは、どこにテントを張ったら良いかすらわからず、それに、メカに詳しくないので例えば、パンクした時に自分で修理ができないのです。そうしたハプニングにぶつかるたびに困り果てていると、地元の人やライダーが「どうしましたか?」と気軽に声をかけてくれました。
 蒲谷さんは、見知らぬ人にお茶をいただいたり、会ったばかりだというのに家に泊めていただいたりすることで、人とふれあうという、これまでにない感動を知ることができたのです。
 各地で見知らぬ人とふれあうたびに、蒲谷さんは心から「バイクで来て良かった」と思ったそうです。また、行く先々でジローはあっというまに人気者になり、目的の募金も順調に集まっていきました。
 蒲谷さんとジローは、1991年の雲仙普賢岳噴火災害復旧募金活動をしながら九州に向かい、集まったお金を、島原市に寄付しました。その後、1993年の南西沖地震の救済金を募って、日本海を北上して北海道の奥尻島役場へ。
 そして、北海道から横須賀まで、交通遺児のための募金をしながら走りました。 蒲谷さんとジローの初めての日本一周ツーリングは約半年間、走行距離は約2万5千キロにおよびました。募金の金額はちょうど77万7千円。蒲谷さんとジローの努力の成果です。

「ライフワークとなった募金活動」

 「この日本一周で私の夢はかなったんです。
だから、2回目、3回目なんて、とても行く気はありませんでした。ところが、日本一周から戻って2ヵ月後の1995年1月17日、あの阪神淡路大震災が起こったんです。ビルが倒壊した街の映像をテレビで見たり、日本一周で知り合った神戸の人から連絡が届いたり、震災の悲惨さを知れば知るほど、もう一度人の役に立てれば・・・と。」「ジロー、また行こうか!」ってことになったんです。
 再び日本一周ツーリングに出ることを決意した蒲谷さんは、その後、1996年から1998年までに3回も阪神淡路大震災の義援金を募るツーリングを敢行し、毎年、クリスマスの日に神戸市役所をバイクで訪れて、集まったお金を寄付しました。
 何気なく始めた募金活動は、いつしか蒲谷さんとジローのライフワークになりました。

「障害を乗り越えて再び」

 そして、1999年5度目の日本一周に出かけた蒲谷さんは、京都での募金活動中に大きなアクシデントにみまわれたのです。
 4月22日昼過ぎ、京都嵐山の渡月橋付近で募金活動中、蒲谷さんは手足がしびれ、ろれつが回らなくなり、おかしいと思い、バイクで2キロ先の河川敷のテントまでたどりつきました。そして左足の感覚がなくなり、すーっと倒れてしまったのです。意識はあったので、右手で携帯電話をかけ、救急車で病院に運ばれる途中、蒲谷さんはジローが後を追って必死で走っているのを見ました。「テントに帰れ」とつぶやきながら意識が途切れたのです。翌日、集中治療室で意識が戻りました。脳内出血で手術を受けたのです。

 一ヶ月後、ジローの安否を心配した蒲谷さんは、京都の地元新聞に「ジローの記事」を載せてもらいました。それからすぐ、朗報が届きました。宇治市の「宍戸さえ子」さんがジローを預かってくれていたのです。

 車にはねられ、道路わきの駐車場で血だらけで倒れているのを見つけ家に連れ帰ってくれていました。ジローは背骨が複雑骨折しており、動物病院で34針も縫う大手術を受けたということでした。後ろ足を動かすことができない状態で、特性の歩行補助車の生活になってしまいましたが「ゴン太」と名づけられ大切に飼われていました。

 6月初旬、蒲谷さんは、神奈川県内のリハビリ施設に転院、ジローも家族の元に帰りました。蒲谷さんは左手足に麻痺が残りましたが、歩行訓練に励み、杖なしでも歩けるようになって、9月下旬、退院しました。 「もう一度バイクに乗りたい」という、強い気持ちでリハビリ生活を乗り越え、蒲谷さんは奇跡の回復をみせたのです。

 蒲谷さんはあきらめられない思いがありました。それは、京都で倒れるまでに集めた募金を神戸に届けることでした。
そこで、バイク仲間に相談してみた所「サイドカーならジローも乗れるのでは?」と提案を頂きました。

北海道の会社社長が協力を申し出てさり、50ccの特製サイドカーを作成してくれました。「これなら安定もするし、ジローも乗せやすい。」と蒲谷さんは、涙が止まらなかったそうです。左手に障害が出る後遺症が残ってしまったので、右手だけの運転は難しいですが、蒲谷さんとジローは毎日、練習に余念がありませんでした。


information

「ありがとうジロー」
      制作実行委員会

〒422-8063
静岡市駿河区馬渕2-14-33
TEL:090-2180-4181
E-Mail:
info@arigatou-jiro.com